2023年5月26日
こんにちは! 東京在住のSです。もうすぐ5月が終わりますね。
今は下の息子(中学3年)の中間テストが終わったばかりで、ホッとするやら脱力するやら、これから返されるテストの点数が気になるやら(!)……で、落ち着かない日々を過ごしております。
さて、今回のテーマは「本」。
たまたまですが、私は街クリにご縁があるまでの約20年間、小中学生向けの教材の編集、主に内容校正を仕事としてきました。
大きなくくりで言えば、「本を作る側」の仕事に従事していたことになります。
「内容校正」とは、簡単に言えば、印字された原稿の中の「まちがい探し」をする作業。
単純な誤字脱字・数値や日本語表現の誤り・教え方や問題内容の違和感・レイアウト(見た目)の不具合などなど。
気づいたものは全て、書き込んでいきます。
なので、内容校正ばかりしていた最初の頃は、
「しっかりまちがい探しをするぞ!」
という意気込みで作業をしておりました。
そのうち、沢山の教材を見てきた経験を評価していただけたのか、とうとう
「原稿の書き換えや新規書き起こし」のお仕事のオファーが……。
正直、とても嬉しかったです😊いよいよ、私も執筆できるんだ~! と。
該当する教科書ページを見ながら、そこでの学習をどう進めてどう導けば理解できるのかを、試行錯誤しつつ新規で原稿を書き上げました。
手書きでの、何とも拙い原稿。
「これで大丈夫か??」と不安に思いつつ、提出。
そして、いよいよ初校(初めて校正する為に印字された原稿)が。
その校正紙を見たときは、感動😆でした!!
あの手書きの、頼りなくて拙いとも感じられる原稿が……。
フォントやレイアウトを調整して見事に印字され、イラストや表もしっかり入っている、それはもう、立派なページに。
「手書きの原稿が印字されると、こんなに印象が変わるんだ……!」
そのとき、初めて実感しましたし、心の底から嬉しかったのを今でも覚えています。
まさに、ふだん校正で見ている教材の1ページ。他のページと遜色なく馴染んでいました。
ですが。
その次の瞬間、妙な感覚に襲われました。
まるで「自分の原稿が私の手元から離れて、遠くへ巣立ってしまった」ような、感覚。
キレイに印字されるって、それだけで公的な要素が一気に高まるのだと。
中身はともかく、ちゃんとした製品として成立しているように見えてしまうのだと。
これが教材本となって配布されれば、不特定多数の子ども達が解くことになる……。
急に、その責任の重さと恐怖感が、じわじわと膨らんでいきました。
全くもって、当たり前のことなのですが、
「その教材で学習する子ども達に対して、執筆・編集する側には大きな責任がある!」
今さらながら改めて、つくづく思い知らされたのです。
その恐怖感を経験して以来、内容校正する際の心構えに変化が。
「単なる間違い探し」だけではなくなりました。
★「(その教材に)初めて取り組む子どもの目線」を絶対に忘れないように。
★解く側の子ども達の信頼を、決して裏切ることのないように。
★その教材を解くことで、一人でも「わかった!」が増えるように。
そんな姿勢で校正に臨むようになりました。
ちゃんとしたフォントやレイアウトで印字されたり、パソコンやスマホの画面上で見られたりすると、一見「ちゃんとしている」ように感じられます。
これって、すごい落とし穴だな~、と……。
パソコンやスマホが手軽に持てるようになり、誰もが、自分でかいた文章やイラストを「それらしく編集して」ネットに載せたり、印刷したりできてしまう、今のこの時代。
「本」だって、その気になれば、ちゃんと印字した形で自分で作れてしまいます。
でも実際、どれくらいの人が、
「ちゃんとしている」ように見えることへの責任の重さ
これを自覚しているでしょう?
街クリのお仕事でも、既にある「ひな型」に該当する情報や文章を入力すれば、ネット上の情報ページに「ちゃんとした公式な情報として」どんどん公開されていきます。
「本」の形ではないまでも、公的な要素を含んでいるという点では、通じるものがあると感じています。
自分の書いたものが「本」のような公的要素のある媒体となり世に出ていくことは、
とっても素敵なこと!!
だと思います。それは間違いないです。私も、ものすごくワクワクしました😆
ですが同時に、
それなりの責任が伴う、重みのあること!!
でもあるんですよね。
そのことを、頭の片隅に……でもいいと思います。ただし、常に意識していること。
それが、とても大切なのではないかと思うのです。
たとえ仕事に慣れてきても、その意識が薄れないように。私自身もこれを機に、しっかりと再認識して仕事に取り組んでいこうと思います!
長くなってしまい、すみません😥
最後までお読みくださり、ありがとうございました!!